COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2013年11月5日 更新(連載第12回)
Leg3
D to P 受け継がれたフロンティアの血脈
浅野眞弥・ゆかり

Leg3 浅野眞弥・ゆかり(2)
「D-CROWN」を造った男

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東京・板橋。JR板橋駅から歩いて10分ほどの、首都高速道路5号線の高架が頭を覆う、山手通りに面した雑居ビルの4階に、ダーツバー「Palms」はある。palmは椰子の木。南国の夜を思わせる広々とした店内に、ダーツマシーンがずらりと並ぶ。

夜の帳がおりると、一日の仕事を終えた男女が、電燈に群がる夏の虫たちのように、一人、また一人とPalmsに吸い寄せられてくる。

ビームライトに紫煙が揺れるカウンターで、グラスを傾けてお喋りに興じたあと、客たちの多くは、ダーツボードに向かう。活気が最高潮となるのは、日付が変わろうとする頃。15世紀半ばの英国で、薔薇戦争最中の兵士らが、酒場の戯れに始めたのが起源とされるダーツの原風景が、ここにもある。

店を切り盛りするのは、ダーツ界の草創期を牽引してきた、浅野眞弥・ゆかり夫妻だ。

都内有数のダーツバー

Palmsのオープンは1999年の暮れ。このとき、二人はまだ交際もしていない。眞弥が友人と始めた。すでに眞弥は名の知れプレイヤーだったが、当初からダーツバーにするつもりだった訳ではない。集客の一助にとボードを2台置いたのが始まりだ。

今ではPalmsをホームとするチームがハードで11、ソフトで3つある。上位リーグで戦うチームのメンバーの大半はプロ登録する選手たち。上級者が切磋琢磨する、都内でも有数の賑わいを誇るダーツバーとして知られるようになった。

ダーツが取り持った縁

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眞弥は1961年、東京・渋谷の生まれ。実家はお風呂屋さんだった。ダーツを始めたのは25歳のとき。すでにハードダーツの日本代表だった小学校からの同級生、野村律子に誘われ、目黒のダーツバーに足を運んだ。

初めてダーツに触ったその日、いきなり団体戦の試合に出場し、こてんぱんに負けた。相手は見るからにひ弱そうな「オタクっぽい」チーム。悔しくて仕方なく、それから毎日8時間練習した。あっという間に虜になった。

1986年。ソフトダーツが日本に登場する遥か昔のこと。「ダーツをやってる」と言うと、「ダンスやってんの」と聞き返されるような時代だった。

二人が出会ったのもその頃。初級者のリーグ戦で何度も顔を合わすうち、自然と打ち解けるようになった。ダーツが二人の縁を取り持った。と言っても、二人の関係が友達の先に進むのは、ずっと後になる。

最前線でソフトダーツの普及に貢献

ダーツが日本に初上陸したのは、戦後間もない神戸。進駐軍相手のパブに米兵が持ち込んだのが最初とされている。

ハードダーツは根強い人気を誇ったものの、競技人口はなかなか増えず、スポーツとしての認知度も低かった。

が、80年代の米国に登場した自動計算機能を持つソフトダーツマシーンが、今世紀に入りIT技術と結びついて、個人記録を蓄積できたり、ネットワーク対戦機能を持ったりするようになると、手軽でエンターテイメント性の高い競技として、急速に普及した。

その普及を最前線で後押ししたのがPalmsなどのダーツバーであり、浅野眞弥らのディーラーだった。

「やるからには実力NO.1のツアーを」

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店を始めて数カ月。出始めたばかりだったソフトダーツのマシーンを置いた。当時、長くハードダーツに親しんできた人々の間では、ソフトダーツを「素人の遊び」と馬鹿にする傾向があった。眞弥もその一人だった。が、やってみると存外面白い。マシーンの数を増やすと、それを目当てにやってくる客も増えた。眞弥はハードのリーグ戦をモデルにして、ソフトのリーグ戦の立ち上げに奔走する。

同じ頃、全国にも同じような動きが広がっていた。ソフトのトーナメント大会も開かれるようになった。各地のリーグ戦やトーナメントを主催するダーツバーの経営者やマシーンのディーラーたちの間に横の繋がりができて、仲間意識が醸成されていった。「同じ仲間同士でやっているんだったら、ツアーにしよう」。マシーンのメーカー、主要ディーラー、バレルメーカーらが集まり、規約やルール、ツアーのネーミングなどについて、何度も会議を重ねた。D-CROWN発足前夜。主要人物の一人が、浅野眞弥だった。

PERFECTの発足に遅れること1年。「やるからには、1番強いツアーを目指す」。プロ登録資格を厳しくして、07年にD-CROWNはスタートした。


当時はまだ西川だったゆかりは、D-CROWN発足当初から参加し、無敵の名を恣(ほしいまま)にした。PERFECTで結果を残せなければ、「最強ツアー」を目指したD-CROWNの誇りが傷つく。ゆかりにとって、新天地は「負けられない戦い」の場だった。

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第3戦 北九州大会 準決勝 第5レグ「クリケット」

浅野 ゆかり(先攻)   今野 明穂(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
×(S1) T20○ T20 60 1R S19 ×(S3) T19○ 19
×(T3) S19 S19 60 2R T19 S20 T19 133
S20 T20 S19● 140 3R S18 ×(T1) ×(T1) 133
S18 S18 T18○ 176 4R S17 T17○ ×(S3) 150
T17● ×(T7) T16○ 176 5R T15○ T15 ×(S2) 195
S20 S15 T15● 196 6R OBL OBL IBL○ 220
S20 T20 OBL 276 7R OBL ×(S6) IBL 297
×(T1) ×(T5) T20 336 8R ×(S12) IBL ×(S5) 345
S20 OBL ×(S14) 356 9R OBL OBL IBL 445
S20 T20 ×(S4) 436 10R S20 ×(S4) OBL 470
×(S5) T20 OBL
WIN
496 11R
○=OPEN ●=CUT OBL=アウトブル IBL=インブル
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準決勝はフルレグに縺れ込んだ。そこまでクリケットでは浅野が2勝、01では今野が2勝。コークは1度で決まらず、アゲイン。僅差で後塵を拝した今野は、随分考え込んでからクリケットを選択し、会場をどよめかせた。

先攻は浅野。序盤の3Rは、浅野の6、2、4マークに対し、今野は4、7、1で、互角の滑り出し。第4R以降も両者爆発力を欠き、小刻みにプッシュを応酬する神経戦となった。

第6R終了時のスコアは浅野196対今野220。オープンした陣地は浅野3対今野4。が、浅野が敵陣を3つカットしたのに対し、今野はカットなし。ポイントではリードを許しながら、浅野が有利に試合を進めた。

第7R以降も両者決め手を欠き、周囲をやきもきさせる展開。今野は最後の陣地のブルで得点を重ねつつカットを狙うが、ことごとく失敗。一方、プッシュに行く浅野も思うように得点を伸ばせない。

第10Rを終わって436対470。最後は浅野が先攻の利を活かし、2投目のT20でポイントを逆転。3投目をブルに突き刺して混戦に終止符を打った。

終わってみれば、コークが明暗を分けた戦いだった。

女王の名が新星の平常心を奪う

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Palmsのテーブル席で、今野がクリケットを選択したときの心境を訊ねると、笑いながら率直な答えが返ってきた。 「ちょっとラッキーだなって。ゼロワンはまったく勝てる気がしなかったんで。今野さん、ブル入り過ぎなんですよ」

浅野ゆかりは笑うが、幸運なだけだった訳ではない。

試合後の今野は語った。「クリケでゆかりさんに勝てる気がしない」
 にもかかわらず、今野は時間をかけて考えた挙句に、クリケットをチョイスしていた。
 ――勝てる気がしないのに、なぜ?
「うーん、気が迷っちゃって」

長い年月をかけて築き上げてきた「女王・浅野ゆかり」の名前が、新星から平常心を毟り取っていた。

(つづく)


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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。