COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2015年1月26日 更新(連載第50回)
Leg11
闘いのクレシェンドに身を投じた修羅の日々 濱大将、闘いのボレロ
一宮弘人

Leg11 一宮弘人(3)
ダーツに賭けた破天荒人生

一宮弘人は首と腰に爆弾を抱えてツアーを戦っている。どちらも椎間板ヘルニア。疲れが溜まると、首と腰が痛み痺れる。ここ一番での集中力が何より重要なダーツ競技には致命傷だ。

腰は野球に没頭していた高校時代、首は布団販売のトップセールスマンだった20代に、歩き過ぎて痛めた。どちらも勲章だが、午前から始まる予選ロビン、午後の決勝トーナメントと、長時間を戦うPERFECTの試合では、時限爆弾となってしまう。

初の決勝

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14年3月、北九州で開催されたPERFECT第2戦で、一宮弘人はついに決勝の舞台に立った。「行ってみたいと言うより、いつかは行く時が来るはず」と思っていた舞台だったが、進出が決まった瞬間は、喜びが爆発した。口を衝いて出たのは「決勝行っちゃったよ、どうする」という言葉だった。

決勝に進んだからには優勝したい、というよりは、その場に行けるという高揚感の方が強かった。それほど、待ち焦がれた場所だった。

対するは年間王者2連覇の山田勇樹。初優勝をつかむには願ってもない相手だった。ランキングでは足元にも及ばないが、決勝トーナメントではそれまで1勝2敗。勝てない相手ではない。自信を持って臨んだが、初めての決勝の場は「異次元」の空間だった。

「体が変わった」

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決勝の第1セット第1レグは山田の先攻で始まる。第4Rを終え、カウントはTo Go 山田91対一宮97。第5Rは両者とももたつき、残りは山田の10に対し、一宮は40。勝負あったかに見えたが、第6Rで山田がまさかのミスを連発。1投目をダブル20に沈めた一宮がファーストレグをブレイクした。

勢いに乗る一宮は第2レグのクリケットをキープし、山田先攻の第1セットをブレイク。第2セットは一宮の先攻で3レグのうち2レグを獲れば勝利を手繰り寄せることができる。尻尾を掴んだ、と思った。

が、落とし穴があった。第1セットをブレイクして、「勝ちたい」から「勝てる」に状況が変わり、初優勝の三文字が目の前にちらついた第2セットで、体が変わった。

第2セット第1レグの何投目だったかは覚えていない。が、突然、自分が硬くなっていることに気付いた。長いダーツ人生の中で、それまで経験のないことだった。同時に、極度の緊張の中で時限爆弾が爆発した。首と腰に痺れが出た。一宮は落ち着きを失う。

第1Rで一宮は3本ともシングル20。山田にTon80を打たれ、僅か1Rで先攻の優位を失い、そのままブレイクを許した。続く第2レグはミスが目立った山田につけ入り、9マークを2度打ってブレイクバックに成功。キープすれば初優勝が決まる先攻の501を迎えた。

ZOOM UP LEG

2014 PERFECT【第2戦 北九州】
決勝 第2セット 第3レグ「501」

一宮 弘人(先攻)   山田 勇樹(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
S20 T20 S20 401 1R S20 S20 T20 401
S20 S5 S20 356 2R T5 T20 T20 266
T20 S20 S20 256 3R T5 S20 T20 171
S5 S20 T20 171 4R S20 S5 T20 86
T20 S20 S17 74 5R T18 D16 0
WIN
OB=アウトボード

先攻の一宮は100Pを削ってスタート。山田も100Pで滑り出した。続く第2R。一宮は45Pしか削れず、あまりにも痛いラウンドとなる。つけ入りたい山田はT20を2本決め90P近く差が開いた。

第3Rは一宮100Pに対し山田95Pで膠着。第4Rでも、セットアップが定まらない一宮は85Pを削るのが精一杯。To go 171で次のラウンドでは上がれない数字を残した。山田は堅実に100Pを削り、残り86Pでブレイクバックに大手をかけた。

第5R。一宮は1投目をT20に沈めるも、2投目はシングルとなり、74Pを残してワンチャンスを待つ。が、山田はT18、D16の2投で決着をつけ、第2セットをブレイク。セットカウントは1-1のタイとなった。

第1セットをブレイクしながら、第2セットを失った一宮の挑戦はここまで。第3セットで勝利を掴む余力はなく、山田に2レグ連取を許し、一時は目の前にぶら下がっていた初優勝の夢は潰えた。

42歳の一宮にとって初の準優勝の喜びと、初優勝を逃した悔しさ。どちらが大きかったのか。
「同じです。喜びが100パーセント、悔しさも100パーセントでした」
 それは、時間が経ってからも変わらない。

狙って入れるダーツに衝撃

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一宮が初めてダーツに触れたのは28歳の冬だった。他のトッププレイヤーと比して、かなり遅い出会いだったと言える。しかも、やはり遅いスタートだった山本信博を含め、ほとんどのトッププレイヤーが、すぐにダーツに憑りつかれているのとは対照的に、一宮がダーツにのめり込むのは、そのずっと後だった。

28歳の冬。当時の一宮は丸八真綿のトップセールスマンで、仕事を終えると部下と、近くのバーで飲むのが日課だった。行きつけの店の2号店が開店し、そこにソフトのマシーンがあったのがダーツとの出会いだ。「とにかく、お酒を飲んでみなと遊ぶのが楽しかった」。が、それ以上でもそれ以下でもなかった。

2003年、一宮32歳の年だった。会社から八王子に一宮をトップとする営業所開設の話をもらった。軌道に乗せたら子会社の「一宮丸八」として独立させるという約束だった。部下を20数名引き連れて、一宮は八王子の人となった。

駅の近くにオープンしたてのダーツバーがあった。通うようになった。それまで、「ダーツが置いてあるバー」で遊んでいた一宮は、そこで衝撃を受けた。酒食よりダーツが主の「ダーツバー」で遊ぶ客はレベルが違った。

自分のダーツは入ればラッキーと喜ぶレベル。が、そこの客は狙って投げてターゲットに入れている。それまでほとんど聞いたことがなかったハットトリックやTON80を知らせる効果音が、頻繁に響き渡っている――。

負けず嫌いに火が点いた。そこは他のトッププレイヤーと同じだ。店長に訊いた。「僕も練習したら上手くなれますか?」
「本気で、真剣にやってくれるならなれます。少なくとも1年間は毎日通ってください」
 店長の言葉で、ダーツに嵌った。

年収1000万円を捨てる

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その日から1年半、1日も休まずそのダーツバーに通った。毎日、朝方まで投げた。それだけではない。昼間も投げた。一宮は1匹狼のセールスマンから、20数名の所帯のトップとなっていた。朝、社員が営業に出かけた後、何をしようが咎める者はいない。足は近場のダーツが打てる場所に向いた。起きている間はほとんどダーツを投げ続けた。

バーの店長が言った通り、ダーツは上手くなった。が、失うものもあった。他者の目からは遊行にしか見えないダーツに、トップが明け暮れているような営業所が上手くいくほど、甘い世界ではない。営業所開設2年後に、一宮は本部に異動を命じられる。言うまでもなく、独立の話は立ち消えになった。

本部で命じられたのは法人の営業。ホテルや旅館に布団を売る仕事だった。会社はトップセールスマンの手腕に期待を寄せた。が、一宮は裏切る。外回りの日中、営業はそっちのけでダーツを投げた。それでも、会社は一宮を見捨てなかった。復活を信じ、次々と別の仕事を与えた。が、ダーツに憑りつかれてしまった一宮は、裏切り続けた。

そして、2006年秋、一宮はついに会社を去る。土日は営業の書き入れ時。日中はさぼっていても、さすがに土日に休むことはできない。が、どうしても、ダーツの大会に出たい。それが、年収1000万円の仕事を辞した理由だった。

このとき、一宮35歳。妻に子供が二人。「濱大将」の愛称で愛される一宮弘人の、ダーツに賭けた人生の始まりだった。

(つづく)


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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。