COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2014年2月17日 更新(連載第26回)
Leg6
「ファイター」という称号を纏った一人の男、その戦いのバラード
今瀧舞

Leg6 浅田斉吾(3)
「ラグビー選手のままダーツを持っちゃった感じです」

2013 PERFECT 第13戦横浜大会決勝。第1セットは両者譲らぬキープ合戦となり、先攻の野島が先取した。が、勝負はここまで。第2セットから、浅田斉吾のワンマンショーの幕が開いた。

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第13戦 横浜大会 決勝 第2セット 第1レグ「501」

浅田 斉吾(先攻)   野島 伶支(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
T20 T20 T20 321 1R T19 S19 T20 365
T20 S20 S20 221 2R T20 T20 S20 225
T20 T20 S20 81 3R T20 S20 S20 125
S19 S12 IBL WIN 4R
IBL=インブル
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決勝の第2セット第1レグは浅田の先攻。第1RでTON80。野島は1投目にT19、3投目にT20を打つが136Pで差がついた。

第2Rで浅田は100Pを削り、野島は20のトリプル2本で140P。僅差に詰めたが、浅田は隙を与えない。第3Rは20のトリプル2本で140Pを削りToGo81。野島は100PでToGo125とし、浅田のミスを待った。

が、ToGo81は、この日の浅田にとって、イージー。少し手間取ったものの、S19の後、S12で残り50をアレンジし、ラストショットをインナーブルにねじ込んだ。

1997年秋 高校日本一

1997年秋、東大阪市の近鉄花園ラグビー場。大阪で開催された「なみはや国体」ラグビー少年男子決勝のグランドで、浅田斉吾は汗に塗れていた。

地元大阪府選抜。ポジションはスクラムの要、ロック。先発出場の浅田は、チームの勝利に貢献し、大阪選抜は圧勝で佐賀を破り日本一の栄冠を手にした。浅田は大阪桐蔭のロックとして、花園(高校選手権)にも出場し、ベスト16に進んだ。

ラグビー漬けの3年間

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浅田は1980年1月、大阪府茨木市の生まれ。大企業に勤める父、家庭を守る母、7つ年長の兄の家族の中、溢れる愛情を受けてすくすくと育った。

恵まれた体躯を活かし、中学からラグビーを始めた浅田は、名門、大阪桐蔭に進学する。待っていたのは、厳しいラグビー漬けの生活だった。

学校は生駒山の麓の大東市。毎朝5時に起床し、茨木の自宅から片道1時間半かけて通学。7時半から9時まで練習し、教室へ。体育科の授業は午前中で終わり、午後は練習に明け暮れる。練習が終わると、6時から9時半までは筋トレ。自宅に帰りつくときには11時を回る。休みは元日とお盆の年2日だけ。夏には必ず逃げ出す部員が何人か出る合宿。そんな生活を3年間続け抜いた。

そして手にした日本一の栄冠。が、浅田が得たものはそれだけではない。過酷な3年間の生活は、浅田にその後の、勝負師としての人生を勝ち抜いていくための糧を与えた。どのように過酷な試練にも耐えうる肉体と精神の強靭、戦う姿勢、漲る自信…。浅田のバックボーンは厳しい毎日を耐え抜いた高校の3年間に、確かに形成された。

相手をねじ伏せる

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もちろん、それはプレイスタイルにも大きな影響を与えている。どんな状況にあっても、弱気になることがない。常に、戦う相手をねじ伏せる気概で、ボードの前に立つことが出来る。

浅田は自分のプレイを「ラグビー選手のままダーツ持っちゃった感じ」と笑う。真意を問うと、興味深い説明をしてくれた。

「ラグビーって、不良のスポーツだと思うんですよ。落ち着いて、平常心でプレイしろ、って言うんじゃないんです。(相手を)全員殺してしまえ、みたいな。そういうメンタルトレーニングをずっと受けてきたんで、それがダーツにも出ているんだと思うんです」

試合に臨む浅田には殺気が漂っている。いわゆる、スイッチが入った状態になる。そのときの浅田には、勝負以外眼中にない。その激しさが、ときに周囲の誤解を生むことになる。

(つづく)


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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。