COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2015年1月13日 更新(連載第49回)
Leg11
闘いのクレシェンドに身を投じた修羅の日々 濱大将、闘いのボレロ
一宮弘人

Leg11 一宮弘人(2)
自由奔放に生きてやる

ダーツは先攻が圧倒的に有利なゲームだ。実力拮抗なら、01もクリケットもレグをブレイクするのは難しい。にもかかわらず、一宮弘人は「後攻からの方が好き」と言う。なぜか?

「先攻だと気負ってしまうんです。ちゃんとやれば大丈夫というテンションが得意ではなくて、むしろ、後ろから捲ったるっていう、相手より得点を重ねておかないと負けてしまうという、崖っ淵の状態の方が性格的にやり易いんです」

後攻が好きということは、後攻が得意であるということでもある。だから、先攻のレグをキープした時の一宮は強い。初の決勝進出に向け、3度目の正直に挑んだ14年3月のPERFECT第2戦北九州大会の準決勝は、第1レグを一宮がキープし、得意の展開となる。

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2014 PERFECT【第2戦 北九州】
準決勝 第2レグ「クリケット」

治徳 大伸(先攻)   一宮 弘人(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
S20 S20 T20 40 1R S19 T19 S19 38
T19 T20 × 100 2R T17 T17 × 89
S17 S17 S17 100 3R T18 S18 S20 107
S20 S18 S20 140 4R T18 S20 S20 161
S16 S16 × 140 5R T16 S18 S15 179
S15 S15 T15 170 6R S15 S15 OBL 179
OBL OBL OBL 170 7R × OBL OBL 179
○=OPEN ●=CUT OB=アウトボード IBL=インブル OBL=アウトブル

第2レグは一宮後攻のクリケット。治徳大伸、一宮ともに5マークで第1Rをスタートした。

第2Rの治徳は1投目に一宮の19をカット、2投目に自陣の20をトリプルでプッシュし6マーク。一宮も17を1投でオープンの後、トリプルでプッシュし6マーク。序盤は全く五分の展開となる。

迎えた第3R。積極的にカットに行く戦術の治徳は一宮陣17のカットに3本を費やし3マーク。一宮は1投目にトリプルで18を獲得。2投目のプッシュはシングル、カットに行った20もシングルとなったが、ポイントで優位に立った。

第4R。再び3マークの治徳はかろうじてポイントを逆転したが、一宮は5マークで再びポイントオーバー。続く第5R。2マークの治徳はポイントオーバーできず、3R連続5マークの一宮がじりじりと差を広げ、真綿で首を絞めるように先攻の治徳を追い込んでいく。

終盤の第6R。39Pビハインドの上、開いている陣地のない治徳は、追い込まれた状況で15を獲得し5マーク。逆転に僅かな望みをつなぐ。が、一宮はすかさず15をカットし、3投目はブルに。勝敗はほぼ決した。

好きな後攻めで第2レグをブレイクした一宮は、第3レグも圧勝。スイープで治徳を退け、「行ってみたいよりも、やっていたら何時かは行ける」と思っていた決勝進出を果たした。

「お前は茨城No.1のピッチャー」

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誰のどんな人生も、その人に関心と興味と愛情を抱いて聞けば、それぞれにとても面白いものだ。が、一方で、どの人の人生もみな同じぐらいドラマチックだという訳ではない。もちろん、それは人生の価値とは関係ない。ただ、話を聞いて面白いのは、劇的な方ではある。一宮のそれは、掛け値なしに面白い。劇的であり、破天荒であり、ときに無茶苦茶である。最近はあまり聞かなくなった「無頼」という語を連想させる。

一宮弘人は1971年の生まれ。父は銀行員で、若い頃は数カ月から数年単位で転勤・引っ越しを繰り返していた。一宮が生まれ落ちたのは東京だが、故郷と呼べるところはない。出身地と聞かれれば、現在実家があり、中学高校を過ごした茨城と答える。

専業主婦の母に3つ上の姉。スポーツがなんでも好きだった一宮少年は「絵に描いたような昭和の家庭」で、すくすくと育った。小学校3年から卒業まではインドのニューデリーで暮らし、異文化も経験した。

茨城で過ごした中学、高校時代は野球に没頭。県立藤代高校2年生の時には、常総学院で全国を何度も制した名将・木内幸男監督から「お前は茨城NO.1のピッチャー。なんで常総に来なかったんだ」と、賛辞を受けた。3年生の夏には、エースで主将を務め、県大会でベスト8まで進んだ。一宮のスポーツ競技者としての基礎体力は、野球に培われた。

初めての挫折

「高校時代はプロ野球選手になるつもりしかなかった」と振り返るほど野球に打ち込んだ一宮は、しかし、3年生の夏の大会直後に大きな挫折を経験することになる。

血行障害で左手がグローブのように膨れ上がった。病院で検査をしても原因が解らない。最悪の場合、左腕を切断しなければならないかもしれない。

野球ができなくなる――。初めての挫折だった。立ち直るのには時間がかかった。が、味わったのは挫折感だけではない。「もうこれ以上はできない。やりきったんだ」という達成感、「ここまで打ち込めることに出会えた」という幸福感、そして自信。野球は18歳の青年に、その先にある困難を避けては通り抜けることが難しい人生を生き抜いていくための、大きな糧を与えていた。

実力社会に身を置く決意

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幸い、血行障害は大過には至らなかった。大学は推薦で立正大学法学部に入学。が、硬式野球部には入らず、「普通に学生生活」を送った。

大学時代に夢見たのは、スポーツ用品メーカーの「ミズノ」に入社すること。史上空前の好景気に踊り、Jリーグ開幕に人々の気持ちが高揚していた時代。ファンの大歓声の中でピッチを躍動するプロサッカー選手が身にまとうユニフォームが、一宮には眩しかった。ミズノで働きたい、と強く思った。

猪突猛進の気質。やりたいことが見つかると、他は見えなくなる。父親はエリート銀行員。強力なコネもあった。「使えるコネはすべて使い」「あらゆる手段を講じて」就職活動に没頭した。

「内定はまず間違いない」。自信を持って就職試験に挑んだが、甘くはなかった。不採用。ミズノ以外考えていなかった一宮は、他の企業は受けていない。2度目の挫折だった。

切り替えが早く巧みなところも一宮の魅力だ。これだけコネを使ってもダメだったのなら、実力社会に身を置いてみよう、そして、自由奔放に生きてやろう――。大学卒業後、一宮はセールスの世界に飛び込んだ。実力主義で知られる丸八真綿だった。

入社2年目に年収1000万

一宮は働きに働いた。仕事は飛び込みの訪問販売。同僚と2人組で、営業車に布団を積み売り歩く。拠点は首都圏だが、静岡や長野にまで足を延ばす。現地に泊まり、売る布団がなくなるまでは帰らない。1日に3、400軒の呼び鈴を鳴らす。話を聞いてもらえるのは100人に1人か2人。害虫を見るような目で追い払われることも珍しくない。「なぜ、こんな扱いを受けなきゃならないのか」。それでも挫けずに続けた。

主力商品は1組50万円もする高級布団。コンスタントに1日に1組売れれば、トップセールスマンと言われる世界で、朝8時から夜10時頃まで働き、瞬く間にトップセールスマンに上り詰める。入社2年目には年収1000万超を得ていた。

天国か地獄か

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丸八真綿のトップセールスマンとして約10年間、走り続けた。30代前半を迎え、会社から独立の話をもらった。本社の販売子会社を設立して一国一城の主になる。典型的な出世コースだった。

1日の仕事を終え、部下を引き連れバーで疲れを癒す。それが当時の一宮の生活スタイルだった。そのバーでダーツに嵌った。会社では独立の準備が進んでいる。が、ダーツが面白くて、仕事に身が入らない――。一宮の人生は大きなカーブに差し掛かる。待っているのは天国か地獄か。

(つづく)


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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。