COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2014年2月10日 更新(連載第25回)
Leg6
「ファイター」という称号を纏った一人の男、その戦いのバラード
今瀧舞

Leg6 浅田斉吾(2)
「最速は、僕です」

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第13戦 横浜大会 決勝 第1セット 第2レグ「クリケット」

浅田 斉吾(先攻)   野島 伶支(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
○T20 S20 T20 80 1R ○T19 T19 S19 76
S19 D19● T20 140 2R ×(S1) ×(T1) ○T18 76
T18● ○T17 ○T16 140 3R ○T15 T15 T15 166
T20 S15 T20 260 4R ×(S2) T15 T15 256
T15● IBL IBL●
WIN
285 5R
○=OPEN ●=CUT IBL=インブル OBL=アウトブル
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序盤から浅田は盤石。第1Rは両者7マーク。第2Rで浅田は相手陣の19を2投でカットし6マーク。3マークで足踏みの野島に対し、試合を優位に運んだ。

第3Rの浅田は圧巻のホワイトホース。野島の18をカットし、17、16を次々とオープンした。野島も15の9マークでポイントオーバーし形勢逆転のチャンスを伺うが、カットはなし。劣勢は誰の目にも明らかとなった。

第4R。浅田は120Pを加点し、ポイントでも逆転。第5Rの1投目で、野島虎の子の15をカットすると、インナーブル2本で勝負を決した。スコアは285対256だったが、得点差以上の圧勝だった。

ダーツを始めて1年でPERFECT初優勝の金字塔

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浅田斉吾がツアーに初参戦したのは、PERFECT初年度の2007年のことだ。この年、初優勝も遂げている。

初戦の第3戦岡山は予選落ち。第4戦でベスト16、第5戦予選落ち、第6戦ベスト32、第7戦ベスト16の後の9月24日、参戦6戦目の第8戦愛知大会で、するすると頂上に上り詰めダーツ関係者を、文字どおりに驚愕させた。

当時のPERFECTは参加プロも現在よりは少なく、アマチュアでも参戦できた。レベルも比較にはならない。が、ツアー参戦6戦目の優勝は金字塔だ。決勝で対戦したのは、この年ランキング4位となる福山芳宏。絶対王者と言われた星野光正を準決勝で退けていた選手だった。

しかし、驚くのはまだ早い。本当に驚愕すべきことは、このとき、浅田はダーツを始めて1年を僅かに超えたばかりだったことだ。一体、浅田という男は何者なのか。

僅か1ヶ月でAフライト

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浅田がダーツに初めて触ったのは、2006年の8月の終わり。26歳の時だった。当時の浅田は整骨院で見習いをしながら、国家試験を目指して専門学校に通っていた。学校の友達に誘われたのがきっかけだった。

別章で詳しく触れることになるが、浅田の兄・剛司は、その頃関西では星野と肩を並べるスタープレイヤーだった。年の差は7つ。有名人の兄と比較されるのが恥ずかしくて、浅田はそれまでダーツを避けていた。

が、やってみると「無茶苦茶、面白い」。友達と皆で投げるのが楽しい。お店の人に「素質あるで」と言われ、なお楽しくなった。それから、毎日10時間、投げに投げまくった。

9月には名古屋まで出かけて、トーナメントに出場。Bフライトのカテゴリーで決勝に進む。そして、ダーツを初めて1カ月もたたないうちに、Aフライトまで上り詰めた。トッププロの多くが短期間でAフライトに達しているが、それでも1年でもかなり早い。1カ月は脅威のスピードだ。

「上達のスピードは、僕が最速です」
 と、浅田は胸を張る。当時のレーティングは最高が18。トッププロで16から17。そのレベルに到達するのに、3カ月かからなかった。つまり、初めて3カ月でトッププロのレベルに達していた。それが誇張でないことは、翌年のPERFECT優勝が如実に物語っている。

海外のプロを手本に

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――上達の秘訣は
「僕の場合は、4人で一緒に始めたから、負けたくないって言うのがありましたね。早く、一番上のカテゴリーに行って、すぐに有名になりたい、というモチベーションもありました。それから、兄がいましたから、あまり格好の悪いことはできないし、どうせやるなら、兄に勝ちたいという気持ちもありました」

――誰かに習ったのですか。お兄さんとか
「兄には習いたくなかったんですよ。7つ上で、完全に上下関係でしたから。話す時も敬語ですし。ラグビーで上下関係はもう嫌だって思ってたのもありましたから。でも、当時はダーツをやるとこがあまりなかったから、どこに行っても、兄に教わった人がいて、その人たちからアドバイスしてもらいましたね。練習は兄の店でしてましたし」

――ほとんど独学ってことですか
「海外のプロの動画はネットでもの凄く見ました。もう、見過ぎるぐらい。で、それを見ながら試行錯誤して、自分のフォームを固めるって感じですかね。とにかく、練習しました。毎日10時間ですから」

それにしても、と思う。素質だけが、初めてダーツを触った男を僅か1年で、トッププロが競うトーナメントの頂点にまで引き上げることが出来るのだろうか。例えば、スポーツの経験が皆無でも、類稀なダーツの素質さえあれば、それほど短期間で頂点に上り詰めることができるのだろうか。そうとは、思えない。

浅田が持ち合わせていたのは、素質だけではなかった。ダーツを始めるまでの彼の歴史が、フィジカルとメンタルの両面で、勝負の世界で生きていく基盤を作り上げていた。浅田には、短期間で急成長できるだけのバックボーンがあった。

(つづく)


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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。