COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2013年11月11日 更新(連載第13回)
Leg3
D to P 受け継がれたフロンティアの血脈
浅野眞弥・ゆかり

Leg3 浅野眞弥・ゆかり(3)
女子ダーツのトップランナー

北九州・砂津港、3月10日。西日本総合展示場を埋め尽くした約3000人の熱気の中、浅野ゆかりはPERFECTに移籍して初めて、決勝の舞台に立った。反対の山を勝ち上がって来たのは沖縄の彗星・大城明香利。どちらが勝ってもD-CROWN勢の初勝利だったが、先輩として、女王として、浅野には負けられない試合だった。

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第3戦 北九州大会 決勝 第2レグ「クリケット」

大城 明香利(先攻)   浅野 ゆかり(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
T20○ T20 T20 120 1R S19 S19 T19○ 38
×(S7) T19● S18 120 2R S18 T18○ S18 74
S18 S18● T20 180 3R T17○ S17 S17 108
S17 ×(S3) T17● 180 4R S16 T16○ T16 172
S16 S16 S16● 180 5R T15○ S15 T20● 187
OBL ×(S3) OBL 180 6R ×(S2) S15 T15 247
OBL○ OBL OBL 230 7R OBL OBL OBL●
WIN
247
○=OPEN ●=CUT OBL=アウトブル IBL=インブル
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浅野の1レグアップで迎えた第2レグは大城の先攻。第1Rの9マークで優位に立った大城は、第2R以降、カットを優先する作戦を採るが、それが裏目にでる。

第2Rは1投目をミス。2投目にトリプルで19をカットしたが、18を獲りにいった3投目はシングル。浅野はすかさず18をオープンし、ポイント差を詰めた。

第3Rも大城は18をカットに行くが、2投を費やし、3投目はプッシュで60Pを加えた。一方の浅野は、冷静に17を奪った。

第4Rも同じ展開。大城は17のカットで3投を失い、浅野は16の7マークでポイント差を8Pまで詰めた。

それでも大城は作戦を変えない。第5Rも15には目もくれず16をカットに。が、シングル3本でプッシュのダーツは残らなかった。浅野は15を1投でオープンすると、2投目はシングルになったもののポイントを逆転。3投目に大城の虎の子の20をカットした。

後のなくなった大城は第6Rで再逆転を狙うもアウトブル2本。浅野は15をプッシュし、大勢を決した。

ダーツが好きだから

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浅野ゆかりの1日の始まりは遅い。昼ごろに起床し、家事や店の雑務をこなした後、夜にPalmsに出勤。ダーツバーの夜は長く、閉店して帰路につく頃には、夜が明けている。

そんな生活の中で、ゆかりはダーツ漬の毎日を送っている。Palmsをホームショップにするチームが出場するリーグ戦は、ハードもソフトも週1試合ずつ。年間にハードが40試合、ソフトは30試合になる。それにPERFECTの試合が年間20試合余。他にも、ハードのトーナメントや近隣のショップやバーで開催されるハウストーナメント。そして、ゲストとして招待される試合やイベント…。毎日のように、どこかで試合のボードに向かっている。それが日常だ。理由はただ一つ。「ダーツが好きだから」

ハードダーツのスターダムを駆け上がる

1968年1月、東京・杉並で生まれたゆかりは、小さい頃から勝負事が大好きだった。生家は建築業を営み、両親に兄が2人の5人家族。父親は賭け事が好きで、家族でも賞品を用意して、花札や麻雀、トランプのテーブルを囲んだ。末っ子のゆかりは、負けたら必ず泣いてしまうほどの負けず嫌いでもあった。

ダーツを始めたのは、大学生になったばかりの頃。ビリヤードを習いたくてアルバイトに応募した近所のプールバーで、ダーツを教えに来ていた「もの凄く格好いい」女性のプロから手解きを受けた。19歳だった。すぐに初級者のリーグ戦に出場するようになり、勝負事が好きで負けず嫌いな性格とダーツがシンクロした。

ゆかりは、数年でハードダーツのスターダムを駆け上がる。トーナメントに出場するようになると、21歳の年にレディースのシングルスで早くも優勝。そして、日本代表を夢見るようになる。

「どうしても日本代表になりたくて」

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当時、ハードダーツの団体は2つ。両団体の関係は芳しくなく、掛け持ちや移籍はご法度が暗黙のルール。しかも、世界大会に出場する日本代表は、ゆかりが所属するのとは別の団体から選抜されることになっていた。

23歳になったゆかりは、ご法度を乗り越え、移籍を決行する。そして、「どうしても日本代表になりたくて、どうしても世界大会に出場したくて」、選考対象となるトーナメントに全戦出場。2年目に、日本代表の座を射止めた。

翌年、初出場のWDFアジア・パシフィックカップでシングルスとダブルスの2冠に輝くと、翌95年にはスイスのベイズルで開催された第10回WDFワールドカップに初出場。代表チームには、浅野眞弥をダーツに誘った野村律子もいた。

以後、2年ごとに開催されるWDFW杯に09年第17回大会までの8回中7回に出場。07年第16回オランダ大会シングルスで3位に入り、世界の表彰台に上った。ゆかりは20年近くに渡り、自他共に認める日本女子ハードダーツの第一人者であり続けた。

ハードの勉強のために始めたソフト

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ソフトダーツを本格的に始めたのは7、8年前から。Palmsのオープン後、ゆかりは眞弥に請われて、ホームショップを移籍した。ソフトのマシーンがあったが、自分には両方はできないと考え、「ソフトは投げないように」していた。

が、頼まれてソフトの大会に出場して考えが変わる。ソフトとハードでは的の大きさが違う。的の小さいハードでは「入ればいいな」という感覚で投げているが、ソフトの選手は外してはいけないというプレッシャーの中で投げている。「これは勉強になる」。そう思ってソフトに足を踏み入れた。浅野眞弥がD-CROWNの設立に奔走していた時期だった。

ゆかりは、ソフトダーツでも実力を遺憾なく発揮。07年スタートのD-CROWNで、数々の伝説を作り、女王と呼ばれることになった。

が、女王は一人ではなかった。先発のPERFECTには松本恵がいる。ゆかりと恵はどっちが強いのか。最強ツアーはPERFECTなのか、それともD-CROWNなのか。ダーツファンの関心が高まる中、雌雄を決すべく団体対抗戦が開催される。2011年の12月のことだった。

(つづく)


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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。