COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2016年2月10日 更新(連載第74回)
Leg15
世界という称号とプロとしての矜持 二兎を追う港町の女王 その航海の軌跡
知野真澄

Leg15 大内麻由美(2)
父の背中

2012年、驚異的な逆転劇でD-CROWN最後の女王となった大内麻由美は、この年の9月、PERFECTをソフトダーツの主戦場に選び、鳴り物入りで移籍した。移籍初戦から2戦連続でベスト4入りし、その実力の片鱗を見せつけた大内の初優勝は「時間の問題」と誰もが思った。が、そこまでの道程は険しかった。

初の決勝で苦杯

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恐らく、女王奪取を裡に秘めて臨んだであろう翌2013年シーズンは、大内にとって試練の1年となる。全20戦中18戦に出場したPERFECTで結果が出ない。年間総合ランキング7位。大内はそうとは言わないが、ハードで女王の名を恣にしていた彼女にとって、屈辱であったに違いない。しかも、そのハードでも結果が出ない。2005年のオーストラリア大会以来、日本代表として4大会連続で出場していたWDFワールドカップの出場も逃した。

苦戦を強いられる中で、PERFECTでは第7戦、第8戦でベスト8、第9戦にはベスト4の表彰を受け、第12戦で移籍後初の決勝に駒を進めた。 この日の大内は絶好調。2回戦で前年ランキング2位の大久保亜由美を、ベスト8では、前年後半に突如現れ、13年季に大旋風を起こしていた沖縄(当時)の彗星・今野明穂を退けた。迎えた準決勝ではハードで長年鎬を削ってきた清水希世を倒し、初優勝が近づいた。

逆山を勝ち上がってきたのは、年間総合4連覇の絶対女王・松本恵。移籍後の直接対決は2戦して2敗。大舞台でD-CROWN女王の力を証明する機会が巡って来た。が、待っていたのは洗礼だった。

第1レグの701は互角の戦いだったが、先攻の松本がキープ。迎えた第2レグで、大内はPERFECTの絶対女王の爆発力を見せつけられる。

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2013 PERFECT【第12戦 広島】
決勝戦 第2レグ「クリケット」

大内 麻由美(先攻)   松本 恵(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
20 T20 20 40 1R T19 T19 19 76
× × T20 100 2R 19 T19 20 152
T20 20 T19 180 3R T18 T18 18 224
20 20 20 240 4R T18 D20 T19 278
16 × T16 256 5R T16 T15 IBL 278
× OBL OBL 256 6R IBL 303
WIN
T=トリプル D=ダブル IBL=インブル OBL=アウトブル
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第1R。5マークタートの先攻大内に、松本が7マークを打ち、いきなりプレッシャーをかける。続く第2Rで大内は2本ミス。松本はシングルとトリプルでポイントオーバーし、3投目はカットにいきシングル。序盤をリードした。

第3Rに大内が反撃。トリプル、シングルで僅かにポイントオーバーすると、3投目はプッシュに行かず、一本で松本の19をカット。7マークで食らいついた。が、直後、松本は18の7マークで再びポイントオーバーし、隙を見せない。

第4R。大内の1投目はトリプルゾーンから2ビット下。2投目は上に逸らし、3投目はさらに上。3マークで僅かにポイントオーバーしたが、先攻の有利を完全に失った。隙を見せた大内に、松本が牙を剥く。1投目のトリプルでポイントオーバーすると、2投目はダブルで大内の20をカット。勝負に出た3投目の一本で17を獲得した。ポイント差38ながら、大内は陣地を失い、松本は18と17を保持し、大差がついた。

第5R。ビッグラウンドが欲しかった大内だが、16の4マークで加点は16Pのみ。松本は1投目の一本で大内の16をカット、2投目に15を獲得し、3投目はインナーブル。2R連続の完璧なダーツで勝負を決した。

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松本に2レグ連取され後のなくなった大内は、後攻の第3レグを互角に打ち合い、意地を見せた。が、ブレイクには至らず、1レグも獲れず初優勝を逃した。

初の決勝を振り返って、大内は言う。「あまり覚えていませんが、もの凄く打たれたっていう記憶があります。スコアを見ても恵ちゃんが爆発している感じなので、仕方ない、って思っていたと思います」

大きな壁に跳ね返された。

運に見放された1年

2013年シーズン、後半に徐々に調子を取り戻した大内は、第16戦石川大会と最終戦千葉大会でも決勝に進出したが、いずれも敗退。石川では、清水希世にスイープされ優勝を逃した。第2レグをブレイクされて迎えた第3レグは、何度もブレイクのチャンスを得ながら、自滅している。

前述の通り、この年の大内はハードでもワールドカップ連続出場を逃している。ソフトではD-CROWNの総合優勝から、PERFECTでの7位に転落。戦績を見る限り、ハード、ソフトとも結果が出なかった。さぞ辛い一年だったであろうと想像したが、当の大内には「特にスランプだったという記憶はありません」と言う。ハードもソフトも優勝に見放され、準優勝が多かった。運営スタッフのミスが重なり、決勝まで対戦しないはずの相手と先に対戦を組まれたり、トラブルで試合に出られなかったりしたこともあった。

「これまでのダーツ歴の中でもかなり運のない年だったかもしれませんね」 記憶を整理して、大内は笑う。心の奥底は計り知れないが、結果が出なかったことも、運がなかったことも、さして苦にしている様子はない。もちろん、過ぎ去ったことではある。が、この辺りに、大内の強さの秘密の一端が隠されているのではないかと思う。ゲームに勝っても喜びを爆発させるようなことはほとんどないし、負けても淡々としている。ぼんやりしているのか、肝が据わっているのか、大内には目先の勝ち負けに拘泥しない強さがある。

運に見放された13年が終わり、迎えた14年シーズンに大内は覚醒する。

日本代表の父

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大内麻由美は横須賀の生まれ。物心がついたころの両親は洋品店を営んでいた。兄と弟がいる。記憶にはないが、子どもの頃の手形が押してある色紙に、「将来の夢 ウサギ屋さん」と書いてある。地元の小学校から中高一貫の私立に進学。「部活もやってないし、勉強もあんまり。これといった趣味もなくて、好きだったことを強いて言えば寝ること、食べること、歌うことぐらい」の、「どこにでもいる女の子」だった。

「どこにでもいる女の子」と麻由美の違いは、父がダーツプレイヤーで、幼い頃から家庭にダーツの環境があったことだ。今年古稀を迎える父・政民は、ハードダーツで何度も日本代表に選出された日本ダーツ界の草分けの一人。ダーツを始めたのは麻由美が生まれる数年前のことで、麻由美が生まれた頃の政民は、日本のトップを目指してダーツに明け暮れていた。麻由美はその背中を見て育った。

家には練習用のダーツのほか、子供用の安全なダーツもあった。そんなに夢中になった記憶はないが、ダーツは大内家の子供たちの遊びの一つだった。

人数合わせでリーグ戦デビュー

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麻由美が小学校に上がった頃には、政民はトッププレイヤーに登りつめていた。洋品店を畳んでダーツバーの経営に乗り出し、ダーツを職業にするようになっていた。試合で各地を転戦することも多くなる。会場が近いときには、麻由美は弟のお守役で率先して父の試合について回った。「優勝したり、成績が良かったりしたら打ち上げで焼き肉を食べに行こうってことになるので、それが楽しみで」試合に連れて行ってもらった。ダーツ自体に興味はなかったが、いつの間にかルールは覚えていたし、トッププレイヤーのフォームは自ずと目に焼き付いていた。

政民は麻由美に限らず、子供にダーツを教えたり、強く勧めたりすることはなかった。が、転機は短大時代に訪れる。政民らが参加していた地元横須賀のリーグ戦に出場するのに女子の頭数が足りない。
「下手糞でもいいから、出てくれ」

 言われるがまま、ミニスカートに厚底靴という、当時流行していた姿でリーグ戦に出るようになった。練習は一切なしのぶっつけ本番。が、ダーツは、狙った的に当たらないまでも、狙った方向には飛んでいく。「惜しい」。麻由美のダーツにチームが盛り上がった。

私出来るかも――。
 歓声に気をよくして、初心者の麻由美はそんなことを思っていた。そのとき、人生が思い描いていたものとは違う方向に大きくハンドルを切ったことを、二十歳の大内はまだ知らない。

(つづく)


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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。