COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2015年10月26日 更新(連載第68回)
Leg14
新たなる修羅の地で彷徨えし貴公子 復活を賭けた「精密機械」 その魂の咆哮
知野真澄

Leg14 知野真澄(4)
10代の「プロ」

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東京・板橋で、老舗のダーツバー「Palms」を切り盛りする浅野眞弥、ゆかり夫妻を、知野真澄は「ダーツ界のお父さん、お母さん」と慕う。ハードダーツの世界大会で何度も表彰台に上っているゆかりは、日本の女子ダーツプレイヤーの草分けで、今やレジェンド。眞弥は、D-CROWNの生みの親の一人でもある、ダーツ界の重鎮である。

高校時代にダーツを始めた知野の才能を開花させたのは、Palmsであり、浅野夫妻であったと言って過言ではない。

D-CROWN最後の王者

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連載第1回で触れた通り、知野真澄はD-CROWNからの移籍組だ。PERFECT開幕翌年の2008年にスタートしたD-CROWNは小所帯ながら、実力はPERFECTと互角と評され、男子ではジョニーこと安食賢一、橋本守容、村松治樹、勝見翔、女子では浅野ゆかり、西口小百合、小峯尚子、大内麻由美らのスター選手を擁し、一時代を築いた。

しかし、財政難から解散に追い込まれ、選手達は2つの団体に引き裂かれる。その時、PERFECTに移籍したのが、知野であり、大先輩の佐藤敬治らだった。女子では浅野、大内の他、ルーキーイヤーだった大城明香利がいた。

シーズン途中で終了してしまったが、この年初めて、知野はD-CROWNの年間王者となった。「D-CROWN最後の王者」の称号を得た「貴公子」は、鳴り物入りで移籍することになる。2012年シーズンのことである。

移籍組の苦戦

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D-CROWNからの大量移籍でPERFECTは沸き立つ。知野と山田勇樹はどちらが強いのか、浅野ゆかりは松本恵を女王の座から引きずり降ろすことが出来るのか――。

が、D-CROWN勢は思わぬ苦戦を強いられる。12年シーズンは、知野は移籍2戦目の第11戦と最終戦のベスト4が最高、浅野ゆかりもベスト4に1度食い込んだだけで、シーズンを終えた。

迎えた2013年シーズン。開幕3戦目の北九州大会で、D-CROWN勢が存在感を見せつける。浅野ゆかりと大城が決勝を戦い、浅野がPERFECT初優勝。「女王」の優勝で勢いを得ると、次節(第5戦)では、大城と知野がそろって3位タイに入賞、第7戦で大城が2度目の準優勝を果たした。残るは、「真澄の優勝」だけとなった。

そして、第8戦の愛媛大会でその時が来る。準決勝で樋口雄也を倒した知野は、山田を退けて勝ち上がってきた実力者山本信博と激突。PERFECTで初めての決勝を戦った。

初優勝

山本は前季、最多優勝の5勝を上げた年間総合2位の実力者。13年シーズンは、虎視眈々と初の年間王者を狙っていた。癖のない美しいフォームから繰り出される繊細で精度の高いダーツで「精密機械」と称されるプレイスタイルは、やはり「精密機械」の異名を持つ知野と酷似。知野は「やり易い」と思っていた。

決勝の第1セットは山本の先攻。両者キープの1レグオールで、第3レグを迎える。

ZOOM UP LEG

2013 PERFECT【第8戦 愛媛】
決勝戦 第1セット 第3レグ「501」

山本 信博(先攻)   知野 真澄(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
T5 T20 5 421 1R T20 T20 T20 321
T20 T20 20 281 2R T20 20 T20 181
20 20 T20 181 3R T20 T20 1 60
20 20 T20 81 4R 20 D20 0
WIN
T=トリプル D=ダブル

先攻の山本は第1Rで2本外し、80ポイントの痛恨のスタート。直後に知野がTON80を打ち、強烈な先制パンチ。後攻の不利を吹き飛ばした。

第2R。立て直したい山本は、慎重に2本をトリプル20に沈め140。しかし、知野も140で譲らない。第3R。残り281ポイントの山本は、セットキープのためには、第4Rに上がり目を残すことが絶対条件だったが、1、2投目をシングルゾーンに大きく外しTON。181ポイントを残した。

ブレイクを決定づけたい知野は、1投目、2投目をトリプル20に綺麗に沈めると、3本目の狙いはブル。僅かに逸れてシングル1に外れたが、残り60。第4Rの1投目をシングル20、2投目をダブル20に吸い込ませ、11ダーツでブレイク。先攻有利の山本から、第1セットを捥ぎ取った。

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第2セットは知野の先攻。レグカウント1―1で迎えた第3レグは、両者譲らぬ接戦となる。知野は先攻の有利を最終盤まで保持し、残り120の第5Rで、「精密機械」の本領を発揮。トリプル20、アレンジのシングル20、チャンピオンシップショットのダブル20を美しく放ち、初の栄冠を手にした。PERFECT移籍から、1年が過ぎていた。

優勝決定の瞬間、客席後方で見守っていた浅野夫妻は、椅子から飛び上がってハイタッチ。眞弥は、手塩にかけて育ててきた後輩の優勝を、「(妻の)ゆかりの初優勝の時より嬉しい」と、喜びを爆発させた。

「始めた頃から上手かった」

時計の針を2005年に戻す。

Palmsに出入りするようになった知野は、浅野夫妻、谷内太郎、佐藤敬治、さらには店の常連らの「先生」達と出会い、ダーツの腕を上げていく。酒場であるダーツバーは、本来高校生が来るところではない。ダーツが上手くなければ、すぐに追い返されていたかも知れない。

が、知野は可愛がられた。恵まれた容姿と物静かで控えめな性格に加え、「高校生なのに、すごく上手い」ことが面白がられたこともあろう。当代切ってのプレイヤーを始めとして、店に出入りする人々が、挙ってダーツのイロハを、高校生に叩き込んだ。

「誰にとくに教わった、ということではなく、全員に、教えてもらいました」と、述懐する知野は、そこで、多くを学んだ。それは、ダーツプレイヤー・知野真澄の太い幹となっている。

「(ダーツを)始めたばかりの頃から上手い子だった」と、当時を振り返える浅野眞弥は、知野の「天賦の才」をいち早く見抜いていた一人だ。ダーツへの情熱が熱く、世話好きだったこともある。眞弥は、ダーツの技術や戦略を教えるに留まらず、高校生で経験を積む場の限られていた知野に、さまざまな機会を与えた。

高校3年生の秋、知野は浅野に連れられ、仙台で初めてトーナメントに出場した。そこで、DMCの社長、森本高仁に紹介された。DMCはPERFECTのメインスポンサーに名を連ねるダーツ用具メーカーの老舗である。浅野は森本に言う。「この子にバレルをやってくれよ。絶対に出てくる選手だから」。高校生の知野に、DMCの社長に紹介されることの意味はよくわからなかった。が、その出会いは、後に知野のダーツ人生のターニングポイントとなる。

DMCの看板を背負い「burn.」の舞台に

2006年、大学生になった知野は、ダーツ一色の生活を送るようになる。夜な夜なPalmsを舞台に繰り広げられるリーグ戦に参加し、場数を踏んでいく。翌年には、10代の若さでDMCとスポンサー契約(用具の支給)を結び、ユニフォームの背中にDMCの看板を背負って、D-CROWNの母体となったトーナメントに出場した。事実上のプロデビューだった。

2008年にD-CROWNがスタートすると、関東近辺の大会にスポット参戦。プロの世界に足を踏み入れる。さらに、年末には21歳の若さで、厳しい地区・ブロック予選を勝ち抜いて、ソフトダーツ日本一を決める「burn.」のグランドファイナルに出場。昭和の言葉で言えば、「擦り切れるほど」繰り返し見て「一番大きな影響を受けた」、憧れの舞台に立った。

ファイナルでは予選落ちしたものの、知野の姿はその年のDVDに収録され、人気が沸騰。イベントの仕事が入るようになり、知野は「みんなの知野君」への第一歩を踏み出すことになる。大学3年生になっていた知野は、就職はせずに、プロとして生きていくことを、強く意識するようになった。

大学を中退し、退路を断つ

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翌2009年には、「前の年の賞金を交通費や宿泊費の元手にして」、D-CROWNにフル参戦。「PRIDE」を含め3度、シングルスのタイトルを手にした。前年の賞金がなくても、この年に得た賞金は、ツアー参戦の経費を遥かに上回った。知野はプロとして生きていく自信をつけた。

そして、2010年春。知野は大学を中退し、退路を断つ。公務員の父と母を持つ大学生にとって、それは大きな決断だったはずだ。名実ともにプロとしての道を歩き始めた知野は、この年、D-CROWNで7度のシングルス優勝を果たし、年間総合2位の成績を上げた。賞金総額は500万円を超えた。さらに、ハードダーツでも活躍。国内予選を勝ち抜き、英国でのマスターズに出場し、海外デビューも飾った。

甘いマスクと正確無比なダーツで、知野はいつしか「貴公子」と呼ばれるようになっていた。22歳。若きプロダーツプレイヤーの誕生だった。


2014年、PERFECTで3冠王者の称号を手にした後輩の活躍に、浅野眞弥は目を細める。 「今や看板選手だからね。俺は何もしてないけど、そうやって育ってくれて、嬉しい」

(つづく)


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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。